書籍・雑誌

『娘は娘』

アガサ・クリスティー『娘は娘』

「若くして夫と死別したアンは、

持てる愛情のすべてを注いで

一人娘セアラを育ててきた。

だが、再婚問題を機に、

二人の関係に亀裂が。」

という紹介文。

そして探偵ものではない、

アガサ・クリスティーの作品。

母と娘、というテーマは、

娘としても母としても

私にはいつも気になる。

生協のチラシに出ていたこの本を

注文して手に入れたのは、

もう半年以上前。

先日、やっと読み始めたら、

夜更かししてまで読んでしまう

おもしろさ。

小説を読んでいるのに、

映画か舞台でも観ているような気になる描写。

会話が多いからかもしれないけれど、

会話が多い小説すべてが

映画を見ているような気になるわけではないから、

やはり、筆の力、ということになるのだろう。

描かれている人物たちは、

必ずしも賢明とは言えない行動をとるのを、

「大人」の目で描かれている、

というのが一番の感想。

まぁ、賢明な行動をとる人たちを描写した小説では

あんまりおもしろくもないわけだけど。

後半、娘のセアラが、大麻中毒になり、

でも、回復していく、というのが、

さらりと書かれているのだが、

ん~、確かに、この話の狂言回し役の

デーム・ローラのような人が知り合いにいたら、

私も回復できるかも、

という気がしてきた。

アガサ・クリスティーって

人間観察力がすごいなぁ、

と思ったのだけど、

ちょっと待て。

私、映画とかでは見たことあるけど、

クリスティーの作品、

探偵ものも、これまで読んでいなかったっけ。

私って、タイトルばっかり知ってはいるけど、

ちゃんと読んでいる本は

ずいぶん少ない。

いろいろな本について、

タイトルだけ知っているのと、

タイトルも知らないのと、

その本を読んでいないということでは

何ら変わりないわけだ。

そのくせ、

タイトルも知らない人を見ると、

「へぇ、知らないんだ」なんて思ってしまう私。

上っ面ばっかりで

中身がないのが、

私の正体なのかもな。

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『ノラや』

今年の3月に、テレビかラジオで

動物写真家か誰かが

「内田百閒の『ノラや』がいい」と言っていたので、

すぐに文庫本を購入したものの、

私のことだから

積読状態になっていた。

読み始めてみると、

そのユーモア感覚や

猫のノラやクルツへの優しいまなざしに

心打たれる。

旧仮名で書いてあったり、

内田百閒が明治生まれだということも

忘れてしまって、

大切に大切に読んだ。

旧かなと言っても、

書かれている時代は

昭和30年代の初めのことなので、

ものすごく古い時代のことでもないのだけれど、

それでも時代背景の違いを感じつつ、

なおかつ、

時代を超えて、猫は可愛い、という気持ちになる。

家で育てていたノラがいなくなったのを嘆く様子は、

少し、老人性うつもあるのでは、

とも思われるけれど、

猫が戻ってこない悲嘆を綴りながらも

ふっと笑わせる一文があったり、

この文章の自在ぶりのすごいこと。

ノラが戻らないまま、

ノラにそっくりのクルツを居つかせて

クルツとの暮らしを楽しんでいたのに

そのクルツが病で亡くなってしまった嘆き。

自分が猫を飼っているせいもあり、

ノラやクルツの描写を読んでいると、

読んでいるだけなのに

猫の毛並みを掌に感じるような気持ちになる。

百閒先生は、きっとあの世で、

ノラやクルツと楽しく暮らしているに違いない。

猫派必読の書らしいが、

確かにその通りであった。

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依存のしくみ

今、『Addiction and Grace』という本を読んでいる。

私の英語力だから、

けっこうゆっくりではあるのだけれど、

今読んでいるくだりは

依存がどうして起こるかについての説明。

ある物質を体内に取り入れたことで、

体内の均衡が崩れ、

それに合わせて

体の方が状態を変えていってしまう、

というようなことが書いてある。

ある物質に対する体の反応、

ということなら、

アレルギーと同じだよなぁ、

と思う。

アレルギーの場合は、

その物質を取り込むと

体が「緊急事態発生!」

という反応をするのに対し、

依存症の場合は、

体が「もっと、もっと!」

という反応になるっていうことなのかな。

その「もっと、もっと!」のために、

自分自信をだますような仕組みまで

作り上げてしまう、

というようなことが書いてある。

そういう説明を読むと、

確かに、依存症は意志でどうこう、

というレベルの問題ではないんだ、

と思えてくる。

今自分が、実質、失業状態なのは、

依存症について

勉強する機会が与えられたのかも。

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活字への信頼

昨日購入した『婦人公論』。

るんるんで読んだときには、

正直、質問に相当する部分なんかザックリ斜め読み、

メリルの発言の方にだけ注意が行っていた。

昨夜、もう一度記事を読みなおしていて

メリルの家族構成の説明で

「子どもは二男二女の4人」と書いてあるのに気がついた。

うっそー。

一男三女のはずでは?

続きを読むと、長男、長女、次女はよしとして、

最後に「ジェイコブソン」と、

明らかに男の名前が書いてある。

いつ末っ子は性転換したんだろう?

まぁ、そんなはずはないから、

書いた側の間違いだろう。

実際に記事を書いた人が間違えたのか、

資料を準備した人が間違えたのか、

それは知らないけれど、

一流出版社の雑誌に太字で印刷してあると

それは正しいものに思えてしまう。

アナログ世代の私は、

いざとなったら「手書き」も辛いとは思わないけれど、

同時に活字に対しては信頼感がある。

でも、テレビやインターネットの情報同様、

活字の情報も、

鵜呑みにせずに処理することが必要なのかもしれない。

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キャンペーン記事

『恋するベーカリー』がらみのHPを見ていたら、

メリル・ストリープのインタビュー記事が

今日発売の『婦人公論』に出る、というので、

実家に行く途中で購入。

実家で、るんるん記事を見てみると、

あれ?この水玉の服着た写真、見たことあるぞ。

メリルのファンサイトで、

スキャンした雑誌記事がアップされている中に

似たような写真があったよなぁ。

だいたいこの記事、

いつ、どこで、誰がインタビューした、

という記載がなく、

「構成○○」と書いてあるだけ。

う~ん、つまり、婦人公論の人が

メリルのところに行って

インタビューしたわけでなく、

今回の映画がらみでの発言をまとめ、

メリルのエージェンシーから配信された写真を載せている、

ということなんだな。

映画会社も、俳優も、

映画を作るだけが仕事ではないのね。

まぁ、なんでもいいや。

メリルの記事なんだから。

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『あおくん と きいろちゃん』

レオ・レオーニの絵本。

なかよしの「あおくん」と「きいろちゃん」、

ある日、お母さんに留守番を頼まれたにもかかわらず、

「きいろちゃん」に会いたくなって出かけた「あおくん」、

やっと「きいろちゃん」に会えて、

うれしくてうれしくて、

ふたりは、「みどり」になってしまう。

家に帰ると、どちらの家でも、

うちの子ではない、と言われてしまう。

2人は悲しくなって泣き出し、

青い涙と黄色い涙がこぼれて、

2人は全部涙になってしまう。

そして、青い涙は「あおくん」に

黄色い涙は「きいろちゃん」になり、

めでたく自分の家に帰れる、というもの。

アルコールと夫を切り離して考えてみようとすると、

この絵本のことを思い出す。

アルコールに対しては無力であること、

夫は本質的には優しい人間であること、

そこまでは、納得できる。

でも、アルコールを体内に入れた夫、

アルコールの作用を受けている夫、

つまり、「みどり」になってしまった夫を

どう受け止めればいいのだろう。

「あおくん」の両親も、「きいろちゃん」の両親も、

最初、子どもが「みどり」になって帰ってきたときは、

自分たちの子どもだとは認めない。

でも、そのあと、どうして「みどり」になってかわかると、

納得するのだけれど、

でも、それは、「あおくん」に対しても「きいろちゃん」に対しても

愛情があるからだろう。

「アルコールちゃん」と仲良しになった「○○くん」を

そのまま、よしとは受け止められない私。

たくさん泣いて、「○○くん」だけにもどらないだろうか。

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時期

近頃、アラノンの本ばかり読んでいたので、

ちょっと違う本も読んでみようと手にしたのは、

ずっと昔に

本屋で平積みになっていた時に買ったもの。

ローリー・アシュナー ミッチ・マイヤーソン 著

水澤都加佐 訳

『どうしても「心が満たされない」人たち』

(大和書房)

1998年の第一刷である。

タイトルを見て、

美人で頭もいいのに、

時々、異常にエキセントリックになってしまう

職場の同僚の顔を思い浮かべ、

彼女のことみたいだ、

と思いつつ、購入。

冷静に考えれば、

いくら、その人を見ていてそう感じるからといって、

それだけで買うはずはなかったのだ。

実は、それは自分にも当てはまる、

という自覚はあった。

その証拠に、

今の今まで、どうしても読めなかった。

人は、図星を言われると不機嫌になるが、

図星の本だと

買っては来るくせに読まない。

たぶん、読もうとしても読めない。

そのくせ、売り飛ばしてしまうこともできない。

そんなわけで、

もう11年もこの本は、

私の本棚で「そのうち読む本」として

鎮座ましていた。

そして、今。

「アダルトチルドレン」関連の本を少し読んだ後だろうか、

なんだか、すらすら読めている。

さすがに、近頃の新書ほどの楽さ加減ではないけれど、

読みやすい。

どうして、もっと早く、読まなかったんだろう、

とは思うけれど、

今だからこそ、読めるのだろうし、

今だからこそ、読んだ中身が、

私の中にストンと落ちるんだろうとは思う。

今まで読んだ部分で、何度も読み返し、

ついに手帳に書き写した部分。

 完璧を求めることはむずかしいが、

 最善をつくすことはできるのである。

 最善をつくすことができればそれで十分である。

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カツマーとカヤマー

週刊『AERA』に勝間和代と香山リカの対談が載っていた。

香山リカの『しがみつかない生き方』が売れていて、

その中に

「<勝間和代>を目指さない」という章がある。

それで、勝間和代の対談を掲載している

『AERA』がしっかり商売したわけだ。

まぁ、「勝間和代」を出すことで

香山リカも本の売れ行きを伸ばしたのだろうし、

それを逆手にとって、対談載せ朝日新聞社ももうかり、

ついでに勝間和代も

対談で得たネタをもとに新聞のコラムを書き、

みんな、万々歳、だ。

でも、

そのみんなの商魂にしっかり乗せられて

対談を読んだ私は、

なんだか微妙な感じ。

どうも、勝間和代と香山リカの話が

噛み合っていない気がする。

対談では、

香山リカは、

勝間和代のように社会的に成功している人間が、

頑張っている話をすれば、

信奉者は頑張りすぎてしまうのだと言い、

勝間和代は、自分の信奉者が

自分と同じことをすることはないのだと言う。

で、結局のところ、<勝間和代>の信奉者は、

実際の勝間和代ではなく、

成功者のアイコンとして<勝間和代>を

目指してしまう、

という風に話は進められている。

で、結局のところ、

そのほかに妥協点はなく、

ふたりの対談は終わり、

別の記事には

カツマーもカヤマーも

流動性のある自由競争社会で

サバイブすることが勝ちで、

勝った人には勝間本が、

負けた人には香山本が

サプリメントにになっているのではないか、

というコメントで締めくくられている。

なんか、えらく収まりのいいコメントだけど、

私は、ちょっと違う気がしている。

少なくとも、香山リカの<勝間和代>のとらえ方が、

少しずれているような気がする。

私にすれば、

香山リカはまっとう以外の何物でもない。

それに比べて、

勝間和代は、どことなく病んだ雰囲気がある。

だから、病んだ人たちが

引きつけられるのではなかろうか。

私は、「勝間本読んで、成功しよう」、

という年でもないから、

全然関係ないと思っていたのに、

本屋の店先で勝間本を手にして、

結局何冊か買って読み、

勝間本経由で、

アラノンのことを知った。

勝間和代自身は、結局、

AAとかアラノンには行っていなさそうだが、

共依存ではあったらしい。

そこから、彼女がどう抜け出たかは

彼女の著書ではよくわからない。

一方、

香山リカの言っていることは、

まっとうだけど、

するっと私の心をすり抜けてしまう。

この差異を感じるのは、

やっぱり私が病んでいるからかも。

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低糖質名無し料理

今日、自宅近くの大型書店に寄ったら、

入口近くの流行り/流行らせようとしている本コーナーに

大量に『主食を抜けば糖尿病は良くなる』が

並んでいた。

え?

いつのまにか、低糖質ダイエットが流行りになっていたの?

とは思えないが、

世間の注目を集め始めたのかも。

近頃、私は、昼間はご飯やパンをそれなりに食べているし、

お菓子もしっかり楽しんでいる。

今日も、友人たちとお寿司のランチを食べた。 happy01

でも、体重は、だいたい一定している。

私の身長なら、もう少し少なくてもいい気もするけれど、

オバさんだし、

骨粗しょう症の予防には

少し骨に負荷をかけておいた方がいい、

という話もあるので、

今の状態を保つようにしている。

LH比が高めなので

その原因の解明が当面の課題だけれど、

体がしんどいということはない。

それになにより、

毎食「あーお腹すいた!」と食事をし、

ドカ喰いはしない生活なので、

よろしいのではないか、と思っている。

そういえば、料理用の酒を買わなくなって久しい。

2月の頭に家人が退院してくる前に、

家に残っていた料理用の酒、

鍋に入れて火にかけ、

蒸発してくるアルコールに

チャッカマンで火をつけて

アルコール分を飛ばした。

冷ました、アルコールの抜けた料理酒を

瓶に戻して、

冷蔵庫に入れ、

それをたまに使っているので

まだ少しある。

低糖質ダイエットでも酒はいけないし、

酒を使わなくても、

そこそこ美味しく食べられるから、

私の料理から酒は消えることになるのかも。

さて、夕方、本屋から家に戻り、

届いていた生協の食材を冷蔵庫/冷凍庫にしまいながら

今夜の献立をテキトーに考える。

豚ひき肉が来て、ナスが残っているから、

マーボーナスにしようか、と思うが、

シシトウもまだ残っているのに、

新しく100g届いたので、

シシトウ入りのマーボーナスにしようと、

ひき肉を炒り始める。

(油なしで炒っておいて、半分はバラ凍結する)

で、野菜室に甘長とうがらしが残っているのも思い出し、

豆板醤はやめにして

甘長とうがらしで辛味をつけることに決定。

ついでにスープも淡口だしを使って和風にしちゃおう。

最後に、これも残っていたにらを加え、

とろみ付けには、乾煎りしてあるおからを使って

マーボーナス転じて、名無しの料理の出来上がり

私って、あり合わせ料理の天才!

と自画自賛したけど、

ほんとは、豚のひき肉が秀逸だから、

どうしてもおいしくなるのだ思う。

手抜きの極意は、

手ごろな価格の美味しい食材の入手に尽きるかも。

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電光石火の帰省

先日、娘が二晩だけ帰省した。

 あんまり長くいると、

 おとーさんのことで

 きっと頭に来るから、

 そのぐらいがちょうどいいと思う

娘の言うこともごもっとも。

帰る家が物理的にあっても

飲み続ける父親とは

気持ちよく過ごせないのだ。

それでも、帰ってきたのは、

やっぱり少し疲れていたから?

それとも、

親バカ母をあわれと思ったから?

娘に余計な気を使わせているのかもしれない。

それでも、娘とのドライブは楽しい!

彼女が、『CSI』のペーパーバッグはやや難しいから

『HARRY POTTER』でも読もうかな、

と言うので、

私の読みかけの

Harry Potter and the Philosopher's Stone』を貸す。

ついでに、西原理恵子の

『この世でいちばん大事な「カネ」の話』を

勧めてみるが、当然、あえなく却下。

そのあと、二人でいろいろ話をしていたところ、

娘が

「残念だけど、世の中は平等じゃないと思う。」

と言い出したので、

『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

の内容に触れたところ、

なんと、娘は興味を持って、

結局読んでしまった。

娘は、子どもの時から、

彼女の作文とか読書とかに

私が関心を示すことをとても嫌がっていたから、

私の推薦図書を抵抗なく読むなんて、

うれしい限り。

娘は2晩泊って、

私の母が白内障の手術で入院しているのを

私と一緒にお見舞いに行き、

帰り道のJRの駅で私と別れ、

自分の家に帰って行った。

また、家人と過ごすのか。

つまらん weep

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